トヨタ2000GTは、当時、トヨタとオートバイメーカーであったヤマハ発動機が作り出した日本の高性能スポーツであり、そのプロジェクトは今でも高く評価されています。そんなトヨタ 2000 GTについて内部的な目から記載しました。
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トヨタ 2000 GTの製造メーカー、トヨタ自動車は日本はもとより世界でも最大級の自動車メーカーであり、ダイハツ工業と日野自動車の親会社であり、富士重工業の筆頭株主でもあります。当時トヨタ2000GTという自動車をオートバイメーカーとしても有名なヤマハとのプロジェクトにより開発し、スポーツ感を得た高性能な機構は高い評価を得ました。
しかしそのトヨタにも逆風は吹き荒れており、金融危機の影響で世界的に販売不振が深刻化する中、トヨタは今後も国内外の生産体制を縮小するとみられています。
日本発の高性能スポーツとして、オートバイメーカー・ヤマハ発動機を発端にプロジェクトされたトヨタ 2000 GTですが、様々な評価を受ける中、1967年5月から1970年8月までの3年3ヶ月で337台が生産されており、、その内訳は、下記の通りです。
国内向け
前期型110台
後期型108台
輸出向け
102台
特殊用途車
前期型12台
後期型2台
試作・テスト用
2台
不明
1台
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トヨタ2000GTという自動車とは、トヨタ自動車が企画し、ヤマハ発動機が開発及び生産を担当して1967年から1970年までトヨタブランドで限定生産された高級乗用車で、当時の2000GTの価格は238万円であり、現在の貨幣価値に換算すると1,500万円から2,000万円似達し、当時のトヨタ自動車の高級車であるクラウンが2台、大衆車のカローラが6台買えるという破格な価格がついている。
ちなみに1967年当時の日本における大卒者の初任給がおおむね26,000円前後であったことを考慮してもいかにこの2000GTが最高級車であったのかということが伺えます。
トヨタ2000GTとヤマハ発動機 日本のハンドメイド高性能スポーツカーという事について触れて生きたいと思います。日本の発展途上期において、自社の技術力を国内外にアピールすべく、ヤマハ発動機の技術に着目して、トヨタ自動車が協同開発したハンドメイドの高性能スポーツカーであり、本格的な「グランド・ツーリングカー」としては日本最初の存在といえる車両でした。その概要は1960年代の日本製自動車としては異例の高度なメカニズムと流麗なデザインを兼ね備えた画期的存在であり、性能面でも世界水準に達したことを交えると、日本車歴史上、後世にまで名を残す一台であり、その存在は東京タワー、東海道新幹線、大阪万博の「太陽の塔」などと並び、高度経済成長期における日本の躍進を象徴するアイコンの一つにすらなっている程です。
トヨタ2000GTとオートバイメーカーヤマハ発動機のプロジェクトについて触れ、説明します。当時オートバイメーカーとして既に日本を代表する存在となっていたヤマハ発動機は、日産自動車と提携してクローズド・ボディの高性能スポーツカーの開発を目論み、試作車も作られたと言われているが、この計画は途中で頓挫しており、ヤマハ発動機は、クローズド・ボディの高性能スポーツカーの開発という企画を改めてトヨタ自動車に持ちかけます。そしてイメージリーダーとなるスポーツカーの必要性を認識していたトヨタ側もこれに応諾し、プロジェクトリーダーの河野二郎、デザイン担当の野崎喩、エンジン担当の高木英匡、シャシーと全体レイアウト担当の山崎進一の4人を中心に1964年から開発が開始され、翌1965年1月、トヨタ側の関係者がヤマハ発動機に出向し、ヤマハのエンジニアと共に詳細設計を行い、4月末に設計図が完成します。更に、計画開始から僅か10ヶ月後の8月に試作車の第1号車が完成し、トヨタ自動車に送られその後、トヨタ自動車は実際の生産をヤマハ発動機に委託し、鈑金・溶接・車体組立・エンジン組立・塗装の工程は、ヤマハ発動機が静岡県磐田市に新設した9号館工場で手作業によって行われました。生産を委託されたヤマハ発動機はFRPパーツ類は新居工場(浜名郡新居町)に製造され、内装パネル関係は日本楽器製造、ボディのプレス関係は1950年代にバイクメーカーとして活躍し、ヤマハの傘下に入った北川自動車工業(後のヤマハ車体工業、1993年4月にヤマハ発動機に吸収合併)が担当しています。
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トヨタ2000GTの開発に関する評価は賛否両論なのですが、トヨタ2000GTは上記のような経緯から、「トヨタは2000GTの自力開発ができず、ヤマハが開発・生産したスポーツカーを買い取っていたに過ぎない」「これは実際には『ヤマハ2000GT』というべきものである」とする酷評に近い言動も発生していますが、両社の開発分担が厳密にはどのようなものだったのかについては諸説あって、2000GTの開発・生産にヤマハが著しく寄与したことは事実と言えど、ヤマハ発動機側は2000GTの開発については、「ヤマハの技術供与」という表現を用いています。
トヨタ2000GTとフラッグシップモデルとしてのその後の動向とアメリカ市場向けの廉価版2300GTというキーワードに触れてみます。市販開始から2年後の1969年8月に、マイナーチェンジが行われ2300GTという、SOHCエンジンを採用した車輌も開発されました。この開発は、ヤマハ発動機がトヨタ自動車に対して提案する形で進められ、アメリカ市場向けの廉価版として本格生産も考えられたようですが、最終的にはトヨタ自動車の反発に遭い生産までは行き着きませんでいた。そして、生産に手間がかかり過ぎてコスト面で引き合わない価格設定でありつつも、トヨタのフラッグシップモデルとして、国産車の高技術力を示す旗艦として全生産期間を通じて常に赤字計上での販売であったにも拘らず生産されたトヨタ・2000GTでしたが、イメージリーダーとして十分な役割を果たしたとの判断から、1970年で生産は終了します。